どの子も取り残さない教育
60~70年代 区立台英小・中学校

 先月20~22日、靴・ものづくりの祭典「エーラウンド」が浅草北部地域で開催されました。その主会場となった建物が浅草ものづくり工房がある区立産業研修センターです(写真上)。その前身は、1969~1976年のわずか7年間続いた台東区立台英小・中学校の校舎でした。その台英小・中学校が果たした貴重な役割とは…。

 東京オリンピック、東京タワー、東海道新幹線…戦後の高度成長を下支えした土木・建設の日雇い労働者・季節労働者が住んでいた山谷地域の簡易宿所(ドヤ)には学校に行かない連れの子どもたちがいました。
 東京都はこの地域の未就学・不就学の子どもに義務教育を保障するため、1964年、城北福祉センター内にプレハブ教室「ひなぎく教室」(南千住)を開設しました。翌年、日本堤に新設したセンター内に移転して「城北学園」となり、1969年、台東区が現在地の橋場に台英小・中学校を創立したのです。
 在籍児童・生徒数は当初の46人が最も多く、日雇い・季節労働の減少、地域の学校への入学で最後の年は3人になり、閉じることになりました。
 教育委員会に保管されている記録冊子(写真下)には、「ひなぎく教室」時代からの当時の学校と子ども、教職員の姿が克明に記されています。

 「親の生活の不安定さをそのまま子どもはたちは背負ってくる。家庭での欲求不満を学校で爆発させる」「先生たちは登校していない子どもを毎朝むかえに行く。やっと教室にたどりついて、鉛筆をもたせ、ノートを開き、少しずつ字を教えていく」…。
 最後の校長・木内守正先生は、巻頭言で中2・S子の日記を紹介しています。

〇月〇日 また父さんは前と同じように帰ってこない。いったいどこにいるんだろう。センターで寝ているかもしれない。今日は雨も降っているのに。
×月×日 父さんは本当に私が可愛いのだろうか。私はもしかしたら父さんにとってじゃまなのかも知れない。ぎりぎりまで追いつめられているのに、それでも生活保護を受けようとしない。どうしてこんなに苦しまなければいけないの。
〇月〇日 家に帰ればいやなことばかり、今の私の心の支えになっているのは学校だけ。もし学校も相談できる人がいなかったら、とっくに私はこの世から消えていたでしょう。くるものは不幸ばかり。幸せは私に背を向けてばかりいる。それでも私は生きている。何かを求めて。

 一人ひとりの子どもに向かい合い、義務教育を保障するためにがんばる教職員、困難ななかでも学び遊び卒業していく子どもたちが浮かび上がってくる記録です。

カクサン